もはや学校の”授業”はいらない

最近では、いやどれくらい昔からか知らないが、受験に関する参考書がたくさん本屋に売られている。東大兄弟旧帝大。高レベルの大学に入学するために今でもどれだけ質の高い授業をするかということが参考書の目的であり、また、その参考書の著者の講師の目的である。僕は今いい大学に入って、研究者になろうと思っている。ネットで有名な参考書を調べて買って読んだり、特にスタディサプリのせきまさおさんの授業を見て、自分は今まで、勉強なんてしてきてないんだなと思った。なぜかというと、今まで自分が得てきたものが表面上のものでしかなくて、まるで記号のように頭に入っているだけだと知ったからだ。あーこれはこういうモノだからそう解釈してくれとか都合のいいように。いや、都合のいいようではなく、ただ本当に記号のように。トップの中学ならまた違っているとは思うのだが、そこら辺の公立中学では、記号のように教科書の内容をただ覚えるだけで点は簡単に取れる。応用などそうそう出るものではない。それでわかっていた気になっていた自分が恥ずかしい。理解と記憶は全く違うものなのだと知った。エジソンが小学校の先生に質問をしまくるという態度、その態度こそが理解するということか!!と気づいたのです。エジソンにもし母親という理解を補助する人間がいなかったら、おそらく日本でいうヤンキーとなっていたでしょう。ここで疑問がわくのです。小学校、中学校で勉強が周りよりできていた人たち(といっても偏差値55程度ですが私の母校はそんな感じです。)が一番のお馬鹿さんなのではないか???と。学校の授業についていけないこと、これは理解しようとする態度から出る当然の現象なのではないか???と。当然のことですが、一人で理解するというのはとてもたくさんの時間を食う。だからおそらく学校の授業時間などでは到底きっちりとした理解というのはなしえないと思うのです。なぜならこの状況・・・確かに学校の先生の立場からすると、一定の期間で、ある程度の広さの内容を生徒たちに教える。いや、紹介しなくてはならないのですから、もうこれは作業というほかないのですが、、これをするには生徒の疑問になど目をくれている暇はありません。昔の本屋の参考書事情を僕はよく知らないので言い切れないのですが、昔の本は、文だけだったり、白黒だったりしてとても子供が読めるものではなかったでしょう。ですが今は違います。近年の受験戦争によって、講師や、参考書の競争が行われ、ついに本質だとか理解を補助する内容の参考書が出てきたと僕は最近感じたのです。理解には非常に多くの時間がかかりますが、それを一人の先生が教えるのではなく、生徒一人ひとりに素晴らしい先生がつき、安定した教えを与えてくれる。素晴らしいことです。学校の授業では、学校の先生が主体ではなく、本が主体となって教え、

その中でも疑問が出てきた場合に、先生が対応すればよいのです。いい提案であると思いませんか?教師の方々、ルーティーンワークは大変ですか?そして学校の授業がつまらないと感じる人(Who is me?)もっと生き生きとした授業を受けたいですよね(勧誘みたい)。

もはや、学校の権威はネットの存在、知の共有によって失われた、唯一学校の素晴らしいところはどこかというと、やらなければならないという環境を作っている点だ。

読んでくださりありがとうございました。^ー^