心の静と動

今回は、心における静と動についてLIFEHACKとMARIMOの両面と絡めて展開していく策であります。
ただし、これを読むには、マリモプログラムLITEver.を読んでいただかないと論理がつながらないですので事前に読んでいただくと理解が良くなります。失礼します。
では、いこうか。体の技法では、静と動という概念はよく聞く。静と動の切り替えがピシッとできるとダンスやらなんやらで見栄えが良くなるとかそういうかんじなんじゃないかなあ。つまり、体においては静と動を使えると何かがうまくいくということになるのだ。そう。同様に僕は心にも静と動があり、それらをピシッと使い分けられると
LIFEHACKとMARIMOにとって徳が存在するといいたいのである。
では、まず心における静と動とは、動きとは?について起爆させていくか。
心における動きとは、心の声の活動レベルである。ピンとこない人は、ノートに、リンゴと書いて、そのあとに思いつくまま心に浮かんできたものを10分間書き続けるとよい。その時の事後の文字量を心の声の活動レベルといい、心における動きというのだ。紙に書くことで思考が整理されたり、考えが進むとよく言われるが、これは、心の動きが誰にでもあって、その動きが思考を良くも悪くも発展させていくからである。
ということは、心の動きにおける静の極限は0文字に対応し、動は無限大とでもいえようか。脳の活動限界もあるだろうから上限はあるだろうが。この心のざわめきこそが動きである。
では、静が一体何の因子に徳を与えるのかを考えていこうか。これは、面白いぞお。静を体験するためには、二つの事例を紹介しよう!
1「心頭滅却すれば火もまた涼し」
2「殺人犯の心の動き」
1fireもう昔の人は僕と同じことを考えていたのではないかと思う。ちなみに上の二つの事例はすでに静の特徴を示している。心頭滅却すれば火もまた涼し。・・・
心の動きを静にすれば火もまた涼し。こういうことである。静とはまさに、いやなことをするために対して徳を発揮する技術である。画像を貼っておこうか。
2fire殺人犯の心の状態を考えたことはあるだろうか。というよりは、強盗の心かな。というより犯人がが殺人と強盗をするならばどう考えながらそれをやるかというのを考えたとき、これは静を使うしかないだろうということになる。ここに関する信頼性のまあまあ高い証明はのちにやる。読者の方もどうだろうか。もし自分がそうするのならどういう心構えで行くだろうか。僕は間違いなく静を使うし。静を鍛える時間を与えられたなら、一切躊躇なくすることもできる可能性を感じる。(本当かよ。カタギ・・・)
理論的な説明。
静とは、考えないことともいえるのである。しかし、感じることを消すことはできない。となると上のは嘘だ。躊躇するはずだ。(bokugasaikopasujyanainarane) 何もないというよりは感じたことを消すこと。浮かんできたものを浮かんでいないくらいに感じるスピードで消去するということなのかもしれない。ここまでは、信用できるはずだ。では、これができるとしたうえで、Aさんに静を使っていいので殺人をしてくださいといったとしよう。すると、Aさんは、当然はあ?と一瞬は思うが、静を使っているのですぐにすん。と無に戻る。これを繰り返す。時期に何も感じなくなるくらいにまで静を使いこなすと、もうAさんは躊躇がない。なぜなら。はあ?と考えることすらないからである。さながらロボットのように何の疑問も感情も持たずやることをやるだけで、そこに疑念の余地はないのだ。わかるだろうか。考えることを禁じられた瞬間やるという以外の道が封鎖される。ほかの扉を見ることもたたくこともできないのだ。疑問はない。そこに先はない。やる。それ以外に原理的にそもそも選択肢がない。え?おかしくね?って?だからーその疑問すら感じないんだって。シーーーーーーーン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
こういうことである。なんだか不思議な心地がしたのではないかと思う。僕はこのことを考えたときに、虚無というのはこういうことなのかもと感じたりするのである。上を踏まえて読者の方もやりたくないことを命令された自分を想像してみてほしいのだ。

さあ次だ。次は動だ。(あ、やっぱりマリモの原理sも読んでもらわないと理解徳がないかもしれない。失礼します。)心における動とは心の動きが盛んである状況を示す。これは、序盤に行った効能ののこり、マリモに対しての徳を発揮するのだ。話というのは基本的に、それに関連した話題を紡いでいって成立していく。(”ある本より”)したがって、心の動きが盛んで関連するような情報がたくさん浮かんでくるときのほうが話はよく続くということである。経験的に、真剣に物事を考えているときには到底人と話などできる気がしない。というのも真剣に考えているときは、この心の動きがだいぶ遅くなっている感覚があるからだ。というよりは消しているのだろう。多分動きはいつも通りあるのだが、その大半を消してしまっているのだ。そうだ。そうそう。僕は、先ほど言った10分間連想するみたいな話をした時にシャーペンでノートに情報を展開していったのだが、到底追いつかない。がりがりがりがりやってもまだ追いつかない。ああ手首が痛い。ということでちゅうだんしたくらいである。そのような心の動きを止めている状態が、ホメオスタシスによっていっちえ時間継続されて、真剣に考えた後は、心の動きが抑制されるために話をするにも話題が出てこなかったり関連した話題を言うこともできず、話が続かなかったりするというfuzzy理論か。そうやって思考を整理しているという見方もできるわけねえ。・・・
とこういう話になると僕のチャッターの場合、静と動をどういう風に切り替えるのかという話になっていくのだ。それを考えるにはまだ情報が不足しているので、また別の機会に話をできるだろうか。